第二章「苦難を乗り越えて」

1. スカーフの製造再開と苦難

読了後、私の胸には、幕末から明治、大正という、今日とは比べ物にならない激動の時代に商いをし、日本の絹織物を世界に認めさせるまでに至ったその当時の職人と商人の気概にあらためて、畏敬の念を抱くとともに、戦後から平成、そして令和へとつながる歴史において、同じように世界を魅了するメイドインジャパンのブランドが出てこない悔しい感情が沸き起こった。

現在、世界を席巻するヨーロッパのファッションブランド。そのルーツを辿ると、少なからず日本の椎野氏のような審美眼と商才に長けた人が創業し、ブランドを大切に築いてきた歴史がある。

今も人気の高いブランドは、バッグ、靴、アウターなど、製品は様々だが、トレンドに流されず、しかし、その当時の顧客が望む「何か」をしっかり取り入れて、それを身に着けることへの高揚と、優越感を満たすものを作り続けることを何十年、何百年と積み重ねてきたという共通点もある。

歴史があるから売れているのではなく、時代が変わっても、変えてはいけないところは変えずに、変化しなければいけないところは変化し続けることで、いまの世界的な羨望とトップブランドの地位を築いた。

翻って、この国の近代化の初期に産声をあげた絹織物のブランドは、数十年にわたり、確かに世界の富裕層を魅了した。

しかし、天災や、戦争により、商いそのものが、モノづくりそのものができない状況に陥ったことが発端となり、ブランド自体が失われていったのだ。

戦後、1947年の貿易再開から、横浜ではシルクスカーフの製造が再び始められた。
内需の景気拡大や、欧米への輸出も復活し、1950年代には、ヨーロッパの有名ブランドの委託生産が始まり、1970年代初頭には、世界のスカーフ生産量の大半を横浜が占めたといわれている。しかし、生産量は伸びていったものの、かつての欧米の富裕層を虜にしたS.SHOBEYのような日本発のブランドはでてこなかった。

そして、急激な円高などにより、輸出産業が大打撃を受けた1985年以降、他のアジア各国へアパレルの生産拠点が移り始めると、スカーフも例外ではなく、低価格で攻勢をかける、メイドインアジアの商品が、日本の売り場を独占し、日本製の、横浜製のシルクスカーフは、役目を終えたかのように多くの人々を魅了する存在ではなくなっていった。

2. 受け継がれた技術

横浜スカーフの歴史は、幕末の絹織物から160年も続く長い歴史である。一時は、日本の輸出品目の花形として君臨し、またある時期は、世界のシルクスカーフ生産のトップを走り続け、ある時は、有名ブランドのスカーフを横浜製が占めていたという日本のファッション製品において、数少ない栄華に彩られた過去を持つ。

しかしながら、現在産業として成り立つことさえ危ぶまれる事態となっている。

私は不思議に思った。

もともと、横浜の絹織物は、世界的にも高品質であり、そのことが当時、生地にもこだわりのある欧米の富裕層にも喜ばれたはずだ。

そして、1980年代ごろからアジア各国から輸入されたスカーフは、価格で勝負する廉価な製品ではあっても、決して品質で喜ばれたものではなかったはずだ。

価格のみで勝負するスカーフではなく、品質を保ちながら、魅了するデザインと価格で長期的に多くの女性が支持するブランドとして、世界でも受け入れられるスカーフにすることはできなかったのだろうか。

ヨーロッパのスカーフブランドと比べ、はるかに長い歴史をもち、かつて欧米の富裕層に受け入れられたとしたら、再度そういうブランドになることもできるはずではないのだろうか?

そんな私の考えをさらに強く後押しするのは日本の捺染(プリント)技術だ。

かつて、S.SHOBEYブランドの椎野氏は、本の中で、<西洋の染織技術は、織と染料であり、重厚な織になればなるほど、日本の織機と技術では歯が立たないため、薄手で平滑な織に活路を見出した。>と書いてある。また、実際にヨーロッパのような寒冷な気候と比べ、日本の温暖な気候では薄手のスカーフの方に需要がある。

そのため、シルクサテンのような薄地へのプリント技術は、今でもヨーロッパで有数のスカーフメーカーとも見劣りしない。

これまで先人が培ってきた横浜スカーフの歴史と技術が今も残っているなら、もう一度、世界最高のシルクスカーフブランドを横浜から生み出せるはずだ。そして、モノづくりを大事にしてきた日本であれば、技術は受け継がれているという自信があった。

まず、スカーフが今でも横浜でつくられてはいないのか、すぐに調査を開始した。

しかし、調査すると横浜での製造に問題があることがわかった。

スカーフ製造において重要な工程に水洗工程がある。長らく横浜でおこなっていた水洗工程も横浜の都市化にともない、生活排水の増加や、水道代の高騰などで、毎年、一社、また一社と工場が地方へ移転、もしくは廃業しているのだ。

製造業者に話をきいても、捺染や水洗は、東北の工場に移転、委託しているという返事がかえってきた。

調べる限りでは、横浜でスカーフを生産している工場を見つけることができなかった。

それでもあきらめきれなかった。

(スカーフを横浜でつくりたい。)

もちろん、横浜以外にも優れたスカーフを作る工場はあるし、イタリアのコモのように海外でも評価の高いところはある。

それでもメイドインジャパンの、そしてメイド・イン・ヨコハマのシルクスカーフにこだわりたかった。

かつて、ヨーロッパの貴族や、アメリカの大商人の婦人が競うように購入した日本の絹織物のブランドのようなシルクスカーフブランドをこの横浜で作りたかった。

そんなある日、取引先の営業から横浜に工場をもち、今もスカーフを作り続けている会社があるという連絡をもらった。

私は急いで、その会社と連絡をとった。

3. 「メイド・イン・ヨコハマ」のスカーフ

横浜は、日本有数の人口を抱える港湾都市であるだけでなく、観光地としても有名だ。
特に、風光明媚な海沿いには、ヨットクラブや水族館、そして豪華客船のクルーズもある。

そんな明るい雰囲気のある横浜の郊外にスカーフを製造する工場はあった。

きれいで近代化された工場の外見からは、昔の横浜絹織物の歴史を感じさせるものはなかった。

しかし、中にはいると、熱気が頬をなでる。染料を生地に定着させる蒸し工程や水洗した後の乾燥工程の最中だった。

「水洗・乾燥工程を横浜でできるところは少ないし、スカーフの全工程を同じ工場でできるところはもっと少ない。だから、よそのスカーフも、うちで水洗します。お陰様で、真夏は地獄ですよ」

担当の営業部長は、そういって笑った。

女性の顔周りを彩るスカーフは、鮮やかな布である。

しかし、その布をつくるのには、外気よりも暑い真夏の工場で作業をしている人がいるのだ。

そして、その向こうには、職人が黙々と一枚一枚、捺染により染色をしていた。

数十メートルの距離に横に伸びたシルクに、1m程度の木の枠で上から下に色を刷り込んでいく。それが終わると次の色をまた刷り込んでいく。

色数の分、捺染が増える。そして、色数の分、値段が上がる。

だから、通常のスカーフは、3-4色程度に抑えている。

今は、捺染技法を使わずに、インクジェットというプリンターでスカーフにプリントもできる。それならば、何色でも印刷できて、捺染のように型をつくる必要もない。

インクジェットでのプリントを否定するつもりはない。しかし伝統技法として、捺染こだわっているだけではなく、実際、捺染でのプリントの方が、裏表の色の濃度に差がなく、色鮮やかなスカーフとなる。

特に薄地シルクであれば、捺染なら裏表がすぐにはわからないくらいの濃さであり、スカーフの仕上がりの良さは、比較にはならないと感じる。

そんな捺染による染色をヨーロッパの一流ブランドのスカーフは10色以上を使用する。

だからこそ、10万円近くの価値をもつスカーフとなるわけだ。

使用者も質のよしあしはわかる。いいものを適正な価格でないと、安いからといって何十年も売れ続けるのは不可能だ。

スカーフはプリントのクオリティとデザインがすべてに近い。そこに魅了され、顧客はお金を払う。だからこそ、私たちも、この技法で質の高いスカーフを作らなければいけないと改めて思った。

一通り、工場を見学させてもらうと、冷房のきいたオフィスに通された。
30分にも満たないのに、生き返った気持がして、自分の軟弱さに笑えてくる。
そこで、社長、営業部長を前に、横浜のスカーフを新しいブランドとして復活させたいという思いを伝えた。

私の話を一通り聞いた後、社長がゆっくりと話し始める。

「そういう話を聞いたことがなかった。うちは横浜スカーフの製造を横浜でできる数少ない会社です。しかし、最近は、そのスカーフ自体の依頼がほとんどなくてね」 その言葉に少し驚いた。

あれだけ、忙しそうに生産しているが、それはスカーフではなく、ハンカチであったり、ストールであったりと、スカーフ自体の製造は少ないらしい。

昔は、スカーフもたくさん製造していたが、安い海外製品にとってかわられたとのこと。

なにより、スカーフ自体を身に着ける女性が減っている。

もちろん、それはわかっていた。

「大量に安いスカーフを販売したいわけでも、商品の一つとしてスカーフを取り扱いたいわけでもありません。どこにもないデザインと色彩のスカーフをこの横浜でつくり、海外ブランドを凌駕するスカーフとして、世界中で認められたい。ぜひ、協力してほしい」

二人は、うれしそうに微笑んでくれた。

「ブランドの名前はもう決まっているんですか?」

営業部長が私に尋ねた。

「はい。 .Y(ドットワイ)です」

これまでのスカーフにピリオドをうち、この横浜から新しく世界を魅了するスカーフブランドを築くため、ブランドを.Y(ドットワイ)と名付けた。

4. 新しいジャパンブランド「ドットワイ.Y」

横浜でスカーフのすべてを製造することができる。そうすると残る課題は、一つだけ。
スカーフでもう一つ重要なのがデザインだ。

今までのスカーフにはない、見て感嘆してもらうようなデザインにこだわりたかった。
それぞれ、独立したデザインではなく、続く世界の中を表現するようなデザインを、スカーフを通してできないかと漠然と考えた。

細かい描写や多様な色彩は、費用もかさむ。しかし、上述の本の中でも、S.SHOBEYもデザインに非常にこだわっている記述がある。

S.SHOBEYのシルク製品に使われていたデザイン帖が残っている。S.SHOBEYのデザインには、幕末から明治へ時代が変わる際に幕府や藩の御用絵師を務めた者が関わったと思われ、すべて模写などではなく、オリジナルのデザインである。

絵巻物のように時間の経過をふくむワンシーンが物語の感じられる図として描かれていること、そして人物が登場せず動植物がモチーフであることが、その大きな特徴である。当時、輸出工芸のための図案は、一般的には大量生産を見越して、広く欧米人に受け入れられるデザインが用いられた。動植物が擬人化される様子などは欧米では幼稚な戯画と見なされたため、S.SYOBEYのデザインは前衛的で挑戦的だったことがわかる。S.SHOBEYのデザインは、動植物をとらえる際、アニメーション的に一瞬の時間の前後までを捉えており、静的ではなく動的にリズムがある。

このように顧客の好みに迎合するのではなく、顧客の想像を超えて、喜んでもらえるようなデザイン。そのためには、優れたデザイナーが必要だった。

しかし、デザイナーには、心当たりがあった。

長年、私たちの製品やブランドのデザインを請けてくれているデザイナーの一人に私は、いつも非凡なものを感じていた。

他のデザイナーとは違う視点と常にオリジナリティをいれようとする姿勢は、素晴らしく絵画としてもレベルの高い人だ。

早速、デザイナーにこれまでの経緯を説明する。

電話越しにあちらも熱を帯びてくるのがわかる。よかった。

こうして、2015年、ドットワイのスカーフがリリースされた。

ローレンシャン-鳥と白樺

タイトルは、「ローレンシャン-鳥と白樺」

カナダの紅葉に住む鳥の昼と夜を映し出した。

あまりにスカーフらしくない、けれど想像通りの素敵な風景だ。

ドットワイのスカーフを感度の高い女性が手に取った時、そのスカーフのデザインや色彩からなにを思うのだろう。

ただ、儲かるかどうかを考えて作られた量産品にはない、そのデザインの世界観や、見惚れるような色彩を感じ取ってもらえたのだろうか。

日本の伝統美とか、文化を守るとかそんな大きなことを言うのはおこがましいかもしれない。
でも、女性がドットワイのスカーフを手に取った時、少し気分が上がり、身に着けた時、思わず笑みがこぼれる。

そんなスカーフを作りたい。