第一章「出会い」

1. ある紳士との出会い

都内のホテルで商談を終えた私が帰路に向かうと、小さなホールで、スカーフが飾られていた。ヨーロッパブランドのスカーフを取り扱っている私は、興味本位でそのホールに入っていった。どこかの小さなメーカーの展示会だろうか?色とりどりのスカーフが飾られていた。一人の女性が静かな笑顔を浮かべ、スカーフをたたみながらこちらをみている。しかし、売り込む様子もない。スカーフには素材の説明やサイズなど書いてあるが、価格はなかった。それよりも私は、そのホールで、椅子にゆったりと座っている紳士がなんとなく気になっていた。どこか虚空を見つめたようなまなざしは、なにかをみているようでみていないようで。商売気も感じられない。そして、隣の机には10冊以上の装丁の高級そうな本が積まれていた。

私は紳士の方に歩み寄り声をかけた。

「このスカーフを作られた方ですか?」

紳士は、ゆっくりと私の方を向いて返事をした。

「私の祖先が作ったブランドをもう一度復活させたんだよ」

やはり、商売しているように感じられない。

「・・復活ですか?」

「そう。私の祖先は、幕末から明治にかけて、日本で初めての洋装絹織物ブランドで、セレクトショップの先駆けだった。」

「明治にセレクトショップですか?」

「そう、日本の製品をおいたお店を横浜に開いていた。海外から来た人に人気があったんだ」

明治が始まる頃といったら約150年前。そんな昔に欧米で人気のあった日本製のシルク製品?にわかには理解できない話だった。ファッション業界で働いていると、いつも思うことがある。日本でも人気のメゾンブランドの存在だ。特にレディースの場合、多くの高級ブランドと呼ばれる有名ブランドは、フランスやイタリアに集中している。100年にも及ぶ長い歴史。でも色あせずにタイムリーにその時の女性の心に響くファッションアイテムと世界観。当たり前のように人気があり、一度人気があればその人気を維持することは容易いと思う人も多くいるが、長く人気があっても、一瞬で凋落するようなブランドもある中で、それだけの人気をブランドとして維持することが並大抵の努力ではない。しかし、それらのブランドでさえも、150年も昔には創業したばかりか、産声をあげていない時代に、この日本に海外で人気のブランドがあったという。

紳士は続けた。

「ペリーが来航して、アメリカやヨーロッパ諸国とも貿易をするようになった。その時に開かれた港の一つが横浜だった。
私の祖先は、そこに店舗をもっていた」

その話ならなんとなく歴史で習ったことがある。欧米の富裕層のファッションとしては欠かすことができないシルクだが、伝染病により、シルクの原料である生糸をつくる蚕が激減。その時日本製の生糸が代わりに世界中に輸出されたということだったと思う。

その紳士は、隣の高級な装丁の本に目をやりながら

「この本に私が調べた私の祖先のやってきたことが書かれている。自分の祖先がしてきたことを全く知らなかったが、ものづくりをしていた。自分も楽器関係のメーカーの会社をやっていた。いま、日本のモノづくりは深刻だよ。金を儲けるためのモノづくりでは、いいものが生まれてこない」

私も、父親が技術者で、その後、自分でモノづくりの会社を立ち上げていた。そんなことからも、日本のモノづくりに興味をもっていた私は、江戸の末期から明治にかけて、海外を魅了してきたメイドインジャパンにとても興味をもった。その歴史がこの美しい装丁の本に記されている。短い時間だが、私はその紳士のモノづくりの熱い思いを聞き、感情が昂っていくのを感じた。お礼を言うと、その本を購入し、その場を後にした。

2. メイドインジャパンの誕生

その本に書かれていた内容はとても刺激的なものだった。

今から約160年前の1859年、欧米との通商が始まった年、最初の開港地となった横浜は、それまで小さな漁村だった景色を一変させた。1850年代にフランスで蚕の疫病が流行したことによりヨーロッパでは生糸が不足。その結果、日本の開港とともに生糸貿易に好景気をもたらした。生糸の輸出が盛んになれば、必然的に、生糸を用いた絹織物も発達する。1860年代になると、世界に向けてメイドインジャパンブランドの絹織物が輸出され始める。

そんな中、大政奉還がなされた1867年、欧米の富裕層の一部にS.SHOBEYという新しい絹織物ブランドが知られる存在となっていた。
ブランドの創始者、椎野正兵衛氏は横浜ではいち早く、毎年発行される在日外国人向けの『JAPAN DIRECTORY』という外国人商工銘鑑や海外からの渡航客が宿泊するホテルへの英文広告を出し、知名度を高めた。また、奥行のある敷地を活かして路地に面したショーウインドウを設え、前衛的な店構えにするなどのこだわりで、他の同業者とくらべ欧米の商人たちから人気があったようだ。

それだけを聞くと、順風満帆なスタートのように感じるが、当時、開港・貿易開始によって国内で巻き起こった爆発的なインフレに不満を抱いた武士による横浜商人の暗殺、および店舗の襲撃はかなりの犠牲者を出していた。このころ独立開業した椎野は、「外国人交易」の形態を貫いたが、これはまさに命がけの商売であったといえる。

とはいえ、S.SHOBEYが販売した光沢に富んだ平織りの絹織物を使った洋装品は、横浜を訪れる海外の人々を魅了した。S.SHOBEYは、西洋服に織や刺繍で和の風合いを注ぎ込み、積極的に「メイド・イン・ジャパンの洋服づくり」を目指した。

一方、そのビジネスのあり方からも、椎野氏が早い段階で「日本」自体をブランドとして意識していたことがわかる。

例えば来店客に配ったS.SHOBEYのブランドブック(ポケットに収まる程度の小さな冊子)には、情緒溢れる日本の情景の色絵と英文による観光案内の合間に、S.SHOBEYの製品案内を簡潔に記載した。最後のページは見開きで横浜の地図になっており、海外客に喜ばれるものであったと推察できる。これはものつくりを通じて日本と世界が交流する喜びを表現したブランドブックとして好意的に受け取られた。また、日本の文化を理解してもらい、日本という国を好きになってもらうことが、S.SHOBEYブランドの理解につながると考えていた。そのため、絹織物だけでなく、扇や漆器などの工芸品も扱い、和のセレクトショップとすることで、実際に店を訪れた海外の人々が、日本の美しい調度品が並んだS.SHOBEYの店舗に“ワクワクした”経験を各所に書き残している。

3. ジャポニスムとシルクスカーフへの発展

1873年、ウィーン万国博覧会に、椎野氏は織物製品出品者を代表してこの渡欧使節団に選ばれ、19世紀のヨーロッパを目の当たりにする。もともとハンカチ(その当時は手巾と呼ばれていた)は、衛生用品の趣が強かったが、ヨーロッパでは、徐々にデザイン性をとりいれた現在のスカーフやショールのような製品が出始めていた。そういったデザイン性の高いシルク製品に影響を受けた椎野は、ウィーン帰国後の1874年にすでに作られていたハンカチーフにさらに改良が加えられ、「羽二重」制を開発。質感や絹の光沢が海外で評判を呼んだ。

ハンカチ(今のスカーフの原型も含む)は、手軽に買える身近な絹製品でありながら、紋織や刺繍に美的な手仕事を感じることのできるS.SHOBEYブランドは、特にアメリカで大きな反響を呼び、ヨーロッパへも盛んに輸出された。

また、絹織物の輸出とともに、当時、欧米でブームとなっていたジャポニスムも追い風となった。日本の着物は17世紀にはオランダを通じてヨーロッパにわたっており、オランダ語でヤポンセ・ロッケンと呼ばれ、上流階級のステイタス・シンボルになっていた。

1870年代から1900年代まで、着物をモチーフとしたガウンやドレス、コートが次々と発表される。しかし、ヨーロッパにおけるジャポニスムのブームは、負の側面もあった。

ブームとは熱しやすく冷めやすいものであり、ただ利益を追求するあまり、原価を極力低くした、質の悪いモノづくりが出回ってくる。
そんな中で、同時期の他の日本のブランドに比べ、S.SHOBEYが特に欧米で高級品として受け入れられ、人気を博した理由は、商業主義的なジャポニスムに迎合することなく、海外のスタイルや様式をまず我が物にし、その後ディテールにさりげない日本の美を隠すことを追求したことにも合ったように思う。そうしたことからも、S.SHOBEYブランドの製品は人目では日本製かどうか判然としないのも特徴である。

また技術についても、注目され、当時の万博においても、S.SHOBEYについては「本会中最も華麗に繍飾をしたる衣服を出せるもの」という報告がある。

それほどまでにS.SHOBEYの刺繍のクオリティは世界でも指折りのものになっていた。こういった技術の下地となるのは、当然職人、一人一人のレベルの向上にある。そういった職人の育成と教育に椎野氏は当時としては画期的なことをしている。

椎野は独自の女子刺繍工養成所を横浜に創設した。S.SHOBEYブランドの絹製品は、生糸や織り、染色、縫製などの工程は各専門職に発注していたが、刺繍だけは自前で行う体制を組んでおり、その一環であった。江戸時代までは縫箔は男性の仕事だったため、女工の採用は画期的であり、またその技術の上達は男性工の励みにもなった。1880年、メルボルンで開催された万国博覧会では、S.SHOBEYは世界初のショール(現代のスカーフのオリジナル)を出品し、人気を博す。そもそもは衛生用品だった「ハンカチ」が、S.SHOBEYブランドによってデザインされたハンカチーフとなり、シルクスカーフへと昇華し、審美品、ファッションアイテムとなっていったといっても過言ではない。明治天皇の后も同じものを献上され、首に巻いたという逸話もある。

4. ジャパンブランドの衰退

1887年にはシルクのハンカチーフが国家予算の1.4%も占める花形輸出品目となり、1890年には輸出額倍増。シルク製品は、政府の重要輸出品目になる。また当時、白無地だったハンカチは、染めるだけの「色無地のハンカチ」へと進化を遂げていた。これはS.SHOBEYが独自に製造開発し、他店は真似ができなかった。今では当たり前の色無地のシルク製品は、欧米で絶大な人気を誇るジャパンブランドとなっていった。

また、1893年のシカゴ・コロンブス世界博覧会では、S.SHOBEYより、琥珀の生地に刺繍で山水画を描いた「琥珀地山水図額」が出品された。これは絵巻物的な時間の流れを用いた構図に、高度な刺繍技術をあわせて製作されており、目を近づけない限り針目や糸がわからないために、一見して刺繍ではなく絵画に見える。刺繍寄贈先の作品を鑑定した専門家は、「最上級の日本刺繍の技法が表現されており、鳥の頭部は、拡大してさらなる研究が必要」と評価した。シルク製品をアートの域にまで達した出来事ともいえる。

1895年、横浜のシルク製品の輸出は最高額を記録。絹製品全体の輸出623万のうち、90%弱をシルクハンカチが占めた。最大の輸出国はアメリカであった。しかし、ハンカチ生産は、すでに日本全国で生産される普及品になっており、こうした輸出拡大は画一的な大量生産を前提としており、時代はS.SHOBEYの目指す審美追求のものづくりとは逆方向に進んでいく。

シルクハンカチは明治以降も輸出額を伸ばし、1918年に最大を記録するが、以降急速に輸出額を落としていく。シルクハンカチの製造法の流出、ショール(スカーフ)の独占販売権をめぐる他店との争議を経て、椎野氏は1887年頃から亡くなる1900年までは、活動の軸足を商売から組合結成や粗製乱造の指導、日本の伝統工芸技術復興のための美術運動へと移していく。ジャポニスムのブーム以降、欧米の好みを求めるあまり、急速に衰えた工芸職人を憂いた椎野は、その技術向上を目指して後進の育成及び伝統技術の保存に努めた。しかし、1900年、椎野正兵衛死去。その後も、傾いた業績を社員一丸となり、立て直し、横浜随一の老舗絹織物店として栄えたが、1923年の関東大震災の際の横浜大火により椎野正兵衛店は消失、後継の大黒柱を失う。

S.SHOBEYは終わりを告げた。

1930年代までは、シルクスカーフの輸出などで横浜の絹物産業は一時的な活況もあったが、1945年、横浜大空襲によりほとんどが消失。一時代を築いた横浜のシルク製品のあっけない幕切れであった。